ラサ
ラサ(チベット語:ལྷ་ས་ ワイリー方式:lha sa/蔵文ピンイン:Lhasa、中国語簡体字:拉萨/繁体字:拉薩)はチベットの政治的、文化的中枢都市。またチベット、モンゴル、満州などの諸民族から構成されるチベット仏教文化圏の中枢でもある。
トゥルナン寺を中心とした環状道路「パルコル(八角街)」の周辺に広がる旧市街と、旧市街の西方に広がり、中国の支配下で建設された新市街から成る。
現在、中華人民共和国の西蔵自治区の区都「ラサ市」の「城関区」の一部を構成している。
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名称
チベット語「ラ(lha)」は神(デーヴァまたは仏、または王)を、「サ(sa)」は土地を意味し、すなわち「神の地」を意味する。吐蕃時代の唐の文献には邏娑あるい邏些の名で記される。
一年を通じ晴天が多い事から「太陽のラサ (nyi ma lha sa)」とも呼ばれる。
古い日本語資料では「ラッサ」という表記も見られた。
由来
7世紀初頭までは「ラサ(ra sa)」(ヤギ(ra)の地)とも書かれ[1]、従って後代に成立したラサの建都伝説では、池を埋め立てる石を運ぶのにヤギを用いた、という物語が付加されている。
歴史
7世紀前半にチベットを統一した吐蕃王朝第33代ソンツェン・ガンポによりチベットの都と定められ、641年には中国の公主(唐王室の皇族女性)がチベットのツェンポ(王)の妃として迎えられた。伝承では、このときネパール王女も同時に妃に迎えられ、二人がもたらした仏像を本尊として納めるため、トゥルナン寺、ラモチェ寺が建立され、市街形成の核となったとされる。
9世紀の吐蕃王朝の崩壊以後、チベットの政治的中心は、時期ごとの覇者たちの所在地を転々としたが、宗教的中心地としての地位は不動であった。1414年にはラサ三大寺の筆頭ガンデン寺の建立をかわぎりにゲルク派の本拠地となり、17世紀中期には熱心なダライ・ラマの信者であったオイラト・ホショト部のグシ・ハンがチベットの大部分を征服したことをきっかけとして、ダライ・ラマの宗派を超えた宗教上の最高権威としての地位が確立され、諸宗派に対するゲルク派の優位、とりわけモンゴルにおけるゲルク派の優勢が決定的となった。この結果、ラサは再びチベット全域の政治的、経済的、文化的中枢の地位を獲得しただけでなく、チベット人、モンゴル人、満州人などから構成されるチベット仏教文化圏の中心ともなった。
文化
脚注
- ^ Kolmaš, Josef. (1967) Tibet and Imperial China: A Survey of Sino-Tibetan Relations up to the end of the Manchu Dynasty in 1912, p. 7. Occassional paper 7. The Australian National University - Centre of Oriental Studies, Canberra.